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【第148回】山崎一男さん、竹下晴久さん(歯科医師・東京都歯科医師会)
未曽有の被害と犠牲をもたらした東日本大震災。沿岸部では多くの人が大津波に巻き込まれ、震災の発生当初から身元の分からない遺体が多数収容された。こうした事態を受けて日本歯科医師会は、早い段階で検視への協力に名乗りを上げ、全国の歯科医師会に対し、現地で検視に当たることのできる会員の出動を要請。4月15日現在で、延べ1488人の歯科医師が、身元確認作業のため被災地に入った。
現場での歯科医師の活動と果たす役割はどのようなものだったのか―。活動を終えた東京都歯科医師会の山崎一男歯科医師と竹下晴久歯科医師に話をうかがった。(田上優子)
―派遣が決まった経緯と、現地での活動を教えてください。
山崎:今回の身元確認の仕事は、自ら志願して行きました。厳密にいうと、手を挙げた人の中から選ばれました。
竹下:派遣が決まるのは急でしたね。つまり、きょう要請が来て、あす行けということなのです。しかし皆、それぞれが自分の仕事をしながら被災地応援に行くのです。あす急に休診するということで、患者さんたちには少なからず迷惑を掛けるので、そういう状況の中でも行ける歯科医師が行ったということです。
山崎:わたしは20日の朝に連絡が来て、22日から宮城に入りました。東京都歯科医師会からは同じ時期に4人出ていて、このほかに愛知と長野と山梨、それから日本歯科大学から4人ずつ出して、計20人が5チームを編成しました。
わたしが行ったのは、石巻市の安置所です。そこは青果市場だった場所でした。昨年まで実際に使われていて、新しい施設ができて空いていたので、そこを使うことになったのです。サッカーグラウンドくらいの広さで建屋はそっくり残っていて、本来は中はがらんどうなのですが、そこにご遺体が並べられているわけです。今回亡くなった人は、津波に飲み込まれたことによる水死が多かった。だから体としては、打ち傷などはありますが、そんなにひどい外傷はありませんでした。
現地では、仙台市内に宿泊していました。市内を午前8時ごろに出発して、約1時間で石巻に到着します。そこから検視の開始です。昼まで続けて、1時間休憩し、夕方4時半ごろまで検視です。検視作業は、1日おおむね6時間くらいでしたね。日によってばらつきがありましたが、6日間で20人が450体のご遺体を確認しました。
わたしは東京でも検視に協力をしています。葛飾区歯科医師会に所属していて、10年以上前から、区内の検視事案にはかかわっています。だから経験としてはあったのですが、あれだけのご遺体を診たのは初めてです。もちろん、検視の作業自体はお一人お一人ずつですが、とにかくものすごい数のご遺体が、建屋の中に並んでいる。でも一歩外に出れば、空が晴れていて、普通の生活をするわたしたちがいるのです。昼には外に出て昼食をきちんと食べるわけです。食べられないなんて言っていられない。そこには、全く異なる2つの世界があるわけです。だから、建屋の中に入るときは、ここは違う世界なんだと自分に言い聞かせないと、ちょっとそこには入り込めなかったですね。とにかく検視に没頭する。そこに安易な感情など差し挟むものではないと思っていました。
竹下:わたしは岩手県盛岡市を拠点にして、釜石市と大槌町に設けられた4か所の安置所を回りました。わたしたちが行ったころはご遺体の数も少なくなっていて(3月28日-4月2日に派遣)、東京都歯科医師会から4人で行ったのですが、そのうち2人は宮古市と山田町に分かれて2、3か所の安置所を回りました。
盛岡から釜石まで約150キロの距離があって、道路事情などもあって行くだけで3時間くらいかかりました。だから、午前中いっぱいかけて移動して、11 時を回って現地に到着していました。午前中に1か所の検視をして、警察車両で移動しながら昼食を取り、次の所に行くという感じでした。
検視については、歯科医師がデンタルチャートを取るご遺体というのが、そもそも着衣や顔から十分に確認できないケースがほとんどです。特に初めのころは、海から引き上げられたご遺体が多く、ご家族が見ても分からない。きのうまで一緒に生活をしていた家族でも分からないのです。後半は、がれきの撤去の過程で見つかった方が多かった。この時期、まだ現地では、山沿いや峠には雪が残っているくらい寒かったので、ご遺体の状態も比較的よく保たれていたのですが、火災やがれきの中にいて撤去作業に巻き込まれたご遺体の中には、検視が難しいケースもありました。
―今回の震災では、大津波で死亡した遺体の収容が千人規模で進んだため、身元が判明しないまま土葬したり、火葬したりせざるを得ない状況になっています。日本歯科医師会の大久保満男会長は3月14日の記者会見で、歯科医師の派遣を行うに当たって、「故人にとって、荼毘に付される前に身元が特定されることが、人として最後のアイデンティティーであり、その特定が歯科医としての責務だ」と述べました。
竹下:われわれはまさにその使命感で行っていました。だから、どんな状況であってもやるしかないし、拒否をする次元の話ではないと考えていました。
わたしは、都内では通常の歯科診療しか経験がなく、警察の検視にも参加したことがありません。つまり普段は、生きている患者にしか接したことがありませんでした。そういう意味では今回、全く初めての経験をしたわけです。
この経験が自分にとってどんな意味を持つか―。それを考えるのはとても難しいですね。ただ普段の診療に照らして考えると、わたしは初診の患者の歯式は取るのですが、そこまで細かくは取らない。いわゆるデンタルチャートのような歯式までは取らないということです。今回の経験を踏まえて、初診時に詳細な歯式があれば万一の事態には役立つだろうと考えます。
また、口腔内の写真は役立ちました。実際、行方不明になっている家族を探している人が、かかりつけの歯科診療所からレントゲン写真と口腔内写真を借りてきて、それと照合することで、直ちに身元確認につながったケースがありました。ただ、写真についてはコストが掛かる割には診療報酬の面でも非常に評価が低いので、厚生労働省には有事に備えるためにも、写真などの記録に対してそれなりの評価をしていただきたいですね。
―検視活動を終えて、今思うことは。
山崎:わたしとしては、何か特別なことをしてきたとか、これを機に何かを変えようということは考えませんね。当然やるべきことをやってきた。それだけです。
そういう意味では、被災地に入っているすべての人と変わりません。自衛隊員や警察官や、救援物資を運んでいる人たちがいる中で、わたしたちは自分たちのすべきことをした。
確かに歯科医師は、普段の診療で死に直面することはまずありません。ただ、今回の経験については歯科医師だけでなく、医師にとっても意味が異なります。つまり医師にとっても、病院で直面する患者の死とは全く違う。想定していないことなのです。しかし、だからといって対応できないということでは駄目なのです。
歯科医師としては、診る人が生きていても死亡していても、口の中を診るというところでは変わらない。そこに差をつけてはいけないと思います。
―大規模災害時に歯科医師のあるべき姿とはどういうものでしょうか。
山崎:その答えは歯科医師になるための教育の中にはないのかもしれません。強いて言うなら、「意識」ですね。いざとなったら、何でもやれるという意識です。ただ、やれますよと口で言っているだけでは駄目です。それは教育をしたとしても、受け止める側に懸かっているので、意識がどれだけ高められるかは、その人の「覚悟」に懸かっていると思います。
診療所を一時休診にする。その分、報酬は減る。それでも、こういう事態の時には、自分のことよりももっとやるべき大事なことがあるだろうと。そうした時には真っ先に手を挙げたいと思っています。それぞれ自分がやれることを考え、やる覚悟を持てるかです。
竹下:わたしも同感ですね。要は、やるべきことの優先順位付けです。わたしにとっては、検視に行くことのプライオリティーが高かったということです。だからといって、「おれは行ったのだから、次はあなたが行くべきだ」とは言わない。今はひとまず体を休めて疲れを取ろうと思いますが、また要請があればわたしは行きます。
ただ、気になっていることがあります。わたしたち派遣組は、1週間程度で帰って来ることができます。でも被災地の歯科医師の先生たちは、これからも延々と続くわけです。現地では、地元の若い警察官が1週間ずっと同行してくれて、車を運転したり、検視の際に口の中をライトで照らしたりしてくれたのですが、彼らは今でも休まず働いています。そうした若い人たちの心のケアも、先々考えていかないといけないと思いますね。